雑学

黄金の国ジパング⇒何処?

黄金の国ジパング

このタイトルって、歴史の授業で聞いたことある人いると思います。

ジパングって、どこのことかはっきりしないという説もあるようですが、
私は日本で間違いないと思います。

ところで、日本が黄金の国ってピンときますか。

ググると、下記のコラムが出てきました。
『ところが驚くことに、その埋蔵量の約16%に当たる6,800トンが日本に眠っているというのです。まさに埋蔵量世界第1位、しかも金山は都市、それも廃棄物の山にあるというのです。携帯電話やパソコンの電子部品に使われている微量の金を全て回収すればの話ですが』(「東京農業大学短期大学部 醸造学科 教授 中西 載慶氏」のサイトより)

電子部品の金を全て回収すれば、日本の金の埋蔵量は世界一。

中西教授のサイトの日付は2010年8月2日ですから、14年近く前のことです。

それにしても、14年前のこととは言え、米国や中国よりも日本の方が金の埋蔵量が多いというのは意外なことだと思いました。

しかしながら、その埋蔵量と言いうのは、電子部品の微量の金を全て回収した場合の話でした。日本で採掘された金のことではありません。

ちょっと脱線が長くなりました。

本投稿のテーマは「黄金の国ジパング」ですから、時代としては平安末期のことです。話を元に戻します。

東方見聞録

「黄金の国ジパング」と言われるようになったのは、マルコポーロが東方見聞録の3冊目に、ジパングはカタイ(中国北部)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど財宝に溢れている、と書いたからです。

マルコポーロはイタリアの商人で、1271年から1295年まで、約24年もの間、アジアを旅しました。

マルコポーロは元(当時中国を征服していた)やインドなどへは行ってますが、日本へは行っておりません。

行ってないにも関わらず、元などアジア諸国から聞いた話を東方見聞録に記したのです。

ジパングは凄いぞ!黄金の国だ!と。

でも、マルコポーロは見てもいないのに、なぜそこまでジパングは黄金の国だと信じ込んだのでしょうか。

奥州藤原氏

中尊寺金色堂

黄金の国ジパングは、奥州平泉の中尊寺金色堂がモデルではとの説があります。

金色堂は5.5メートル四方の小さなお堂です。

内も外も総金箔貼りで、壁から柱から床から金箔を貼っているそうです。

(すみません、実際に見たことありません。)

ですが、黄金の国としては、5.5メートル四方のお堂では小さすぎですね。

当時の奥州には、玉山金山などの金鉱脈が存在しており、多量の金が産出され、平泉には金の装飾があちこちにちりばめられていたそうです。

金色堂だけではなく、平泉全体が金だらけの都市だったのではないでしょうか。

ところで、2024年1月23日(火)〜4月14日 (日)に東京博物館で中尊寺金色堂の特別展が行われています。

流石にミイラは展示されていないようですが。

日本第二の都市平泉

奥州全盛期を迎えた藤原秀衡の頃は、平泉は日本の中で二番目に栄えた都市でありました。

第一の都市は言わずと知れた平安京です。

平泉は当時、人口10万人の大都市だったと言います。鎌倉よりも栄えていたのです。

今の平泉の人口は7,500人くらいです。現在は市ではなく、平泉町ですね。

「夏草や兵どもが夢の跡」は、松尾芭蕉が平泉で詠んだ句ですから、奥州藤原氏のことを詠んだものだと思います。

藤原氏四代

奥州藤原氏は、奥州で豊富に産出された金と、北方貿易によって莫大な富を蓄えました。

奥州藤原氏は、朝廷や藤原摂関家(こっちは京都の藤原氏です)に砂金や馬などの貢物を直接献上していました。
つまり朝廷の直下ということです。

また、十三湊で直接大陸と貿易をしておりました。当時の中国は宋です(元ではありません)。十三湊は青森県十三湖に位置する湊です。

大陸と直接貿易をしても、朝廷や摂関家に貢物を献上していたので、咎められることもなかったのでしょう。

奥州藤原氏の系譜を簡素に書くと下記のようになります。

奥州藤原氏の極めてシンプルな年表を下記に載せます。


後三年の役を契機にして、奥州藤原氏の祖となったのが清衡です。

その子基衡は奥州藤原氏の内紛において、異母兄の惟衡に勝ち、二代目当主になりました。

その子秀衡の時、奥州藤原氏は最盛期を迎えました。源氏と平氏のどちらの戦いにも加担せず、奥州で財を蓄えておりました。

ただし、1185年に平家が滅んだ後は、源頼朝は秀衡に対して、朝廷への貢物は鎌倉が仲介することや、東大寺再建のために三万両という途方もない金額を納めることなどの要求をしてきました。

そして、源頼朝に追われて、源義経が平泉に秀衡を頼ってきたときには、これを匿っています。
秀衡は、義経を主君として国衡・泰衡が協力して頼朝に対峙するように、義経・国衡・泰衡に起請文を書かせています。

義経の軍略の高さを見込んでのことでしょう。

さて、泰衡、国衡、忠衡は秀衡の子です。

泰衡は、正室の長男であったため嫡男となりました。

泰衡は秀衡の死後、秀衡の遺言に従わず、頼朝の圧力に屈し、衣川の戦いで義経を討っています。

しかし頼朝は泰衡との約束を違え、奥州合戦を仕掛け、奥州藤原氏を滅ぼしてしまいます。

泰衡は比内郡贄柵(秋田県大館市)まで逃げますが、郎党に裏切られ、殺害されました。

国衡は秀衡の子としては泰衡より年長の長男でしたが、側室の子だったため嫡男になれませんでした。

しかし武勇優れた人物として期待されていたようです。

実際、奥州合戦では奥州勢の大将軍で、阿津賀志山の戦いでは鎌倉軍と激戦を交えています。

この戦いで国衡は戦死しました。

忠衡は秀衡の遺言に反して義経を討った泰衡に対して反乱を起こしますが、泰衡に誅殺されてしまいます。

兵どもが夢の跡

かくして、奥州藤原氏はあっけなく滅ぼされてしまいました。

金や貿易で財を成し、秀衡の代では数十年ほども奥州に平和をもたらしたことが、却って奥州藤原氏の滅亡をもたらしたのではないかと思います。

源平の合戦で激しい戦を繰り広げている最中、奥州は中立を保って、平和の時を過ごしていました。

そこへ欲の塊である頼朝が、平家を滅ぼした後、源平合戦での実戦豊富な兵を奥州に集結させて戦を仕掛けたため、簡単に奥州藤原氏は瓦解してしまったのではないでしょうか。

秀衡の子たちが一枚岩でなかったのも、原因の一つだと思います。

石橋山の合戦(源氏の大敗)以来、命令だけ出して自分は出陣しなかった頼朝が、奥州合戦では出陣しているのはちょっと不思議に思います。

出陣と言っても、鎌倉軍が奥州軍に壊滅的な打撃を与えた後の進軍ですが。

義経の気になる話

義経は平泉では死んでおらず、北海道に渡ってその土地の権力者になったという伝説があります。

泰衡も北海道に逃げようとしていたという説があります。

ひょっとしたら、泰衡は義経を頼って北海道に逃げようとしたのでしょうか。

さらには、義経は大陸に渡って、チンギス・ハンになったという壮大は話もありますね。

でも本当にそうだったとしたら、チンギス・ハンの孫のフビライ・ハンの時代になって、マルコポーロが元で聞いた話、大陸の東にジパングという島国があってそこは黄金の国だという話がつながってしまうのです。

元にはチンギス・ハンの思いで話が語り継がれていたのではないかと。

私も昔からこの説はありえないと思いながら、そうであったら面白いなと思っています。