出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
目次
奥州藤原氏について 年表と系譜
くだもの小僧と申します。
少年の頃、日本史が好きだったのですが、間抜けなことに「奥州合戦」というものを知らずに長年過ごしてしまいました。
それにしても奥州藤原氏について調べてみると謎が多いです。
最近奥州藤原氏に関して、下記の3つの投稿をしております。
本投稿も引き続き、奥州合戦についてです。
奥州合戦とは、源平の戦い(治承・寿永の乱)で源氏が平家を滅ぼした後、鎌倉政権が奥州藤原氏に戦を仕掛けて滅ぼした戦いです。
奥州合戦は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて行われました。
奥州藤原氏については、文章で書くと長くなるので、表と系譜(ウィキペディアを参照)にまとめました。奥州藤原氏の当主は清衡、基衡、秀衡、泰衡です。
藤原清衡は、清原氏の養子となり、一度、清原清衡を名乗りましたが、藤原姓に戻り奥州藤原氏の初代当主となりました。
「炎立つ」という大河ドラマで、奥州藤原氏の経清から泰衡までの歴史を描いたドラマが放送されました(が、私は当時「炎立つ」が放送されたことすら知りませんでした)。
奥州合戦の概要
奥州合戦が起こったのは1189年のことです。しかしながらそれまでの経緯が分かるようにそれ以前の出来事も時系列に記載しました。(ウィキペディア「奥州合戦」より編集)
1180年2月:源頼朝、挙兵。源義経は藤原秀衡の下を離れ頼朝に馳せ参じる
1184年6月:藤原秀衡は東大寺再建に報じる鍍金料金を五千両納める(源頼朝は千両)
1185年3月:壇ノ浦の戦いで平家滅亡する
1185年10月:源義経、頼朝と対立して謀反を行うが挙兵に失敗
1186年4月:頼朝は、秀衡が朝廷に献上してきた金と馬を自分が仲介するように強制する
1187年2月:秀衡は源義経を平泉に匿う
1187年4月:頼朝は秀衡に東大寺再建のためとして三万両を納めるよう要請する
1187年10月:秀衡は泰衡、国衡、義経に、義経を主君として力を合わせて頼朝の攻撃に備えるよう起請文を書かせる。秀衡、没する。
1188年2月・10月:頼朝は朝廷に宣旨を出させて泰衡に義経追討を要請する
1189年2月・3月・4月:頼朝は執拗に奥州追討の宣旨を要請
1189年閏4月30日:藤原泰衡、頼朝の圧力に屈し衣川館を襲撃し義経を討つ
1189年5月22日:奥州より義経誅殺を伝える飛脚が鎌倉に参着
1189年6月13日:義経の首が鎌倉に届き、和田義盛と梶原景時が首実検を行う
1189年6月26日:泰衡は弟の忠衡(泰衡が遺命に背いたことで反乱を計画)を殺害する
1189年7月19日:頼朝は家人の義経を許可なく討伐したことを理由として鎌倉を発して泰衡追討に向かう
1189年8月8日~10日:阿津賀志山の戦い。奥州軍敗北す
1189年8月12日:頼朝、多賀城国府に到着。東海道軍が合流
1189年8月13日:北陸道軍、出羽国で奥州勢を討ち取る
1189年8月21日:頼朝、平泉に向かう。泰衡、平泉に火を放って逃走
1189年8月26日:頼朝の宿所に投降を仄めかす泰衡の書状が投げ込まれる
1189年9月2日:頼朝、平泉から岩手郡厨川柵に向けて出発
1189年9月3日:泰衡、比内郡贄柵で郎従の河田次郎に殺害される(自刃か)
1189年9月4日:頼朝、志波郡に到着。陣岡で北陸道軍が合流
1189年9月9日:一条能保の使者が陣岡に到着。7月19日付の泰衡追討宣旨を持参
1189年9月11日:頼朝、陣岡を出て厨川柵に入る
1189年9月19日:頼朝、厨川柵を出発。平泉に戻る
1189年9月28日:頼朝、鎌倉に向けて帰還
奥州合戦地図(『左大臣どっとこむ』の「奥州合戦 地図」に赤字で加筆)
鎌倉軍は東海道軍・大手軍・北陸道軍の3手に分かれて奥州に進軍しました。
義経の生死に関して鎌倉方の行動がトロすぎ
藤原泰衡はとんでもない愚か者
史実通りだと、藤原泰衡はとんでもない愚か者です。
頼朝の執拗な圧力に屈して、戦の天才である義経を自害させました。しかも父秀衡の遺命に背いて。
ところが泰衡は、源頼朝に義経を勝手に討伐したと咎められ、奥州合戦を起こされ、藤原氏は滅亡してしまいます。
「えー!あんた(頼朝)が義経を討てと言ったんじゃないの!」と泰衡の悲痛な叫びが聞こえてきそうです。怨霊になって頼朝を祟ってやりたいと思ったかも知れません。
しかし、もし未だに語り継がれる、義経は生き延びて北海道に渡ったとか、さらに大陸に渡ったという伝説が本当だとしたら、泰衡の計略が功を奏したことになります。
衣川の戦いの検証者は?
義経と藤原泰衡は、1年半前に起請文を交わした仲です。
ところが、泰衡は義経を衣川の戦いで討ってしまいました。戦上手の義経がいなくなったことで、頼朝は喜んだことでしょう。
義経は1189年閏4月30日に討たれ、その首は6月13日に和田義盛と梶原景時により首実検されたと言います。なぜ頼朝は自ら首実検を行わなかったのでしょうか?
義経誅殺の報を伝えた飛脚が鎌倉に付いたのは5月22日と言います。
...飛脚にしてはあまりにも遅すぎませんか。
そして、義経の首実験が行われたのは、義経死後から43日後です。
そして真夏に運ばれた義経の首は、かなり腐敗していたと言います。
そもそも、鎌倉方のスパイは義経の動向を逐一監視していたはずです。
平泉に潜伏する鎌倉方は衣川の戦いに気付いてなかったのでしょうか?
せめて義経自害後すぐに、見知った者が義経の首実検をすべきだったのでは?
義経の生死という一大事に関して、鎌倉方の行動がトロすぎます。疑問を感じます。
阿津賀志山の戦いでの不思議
奥州軍の防塁は役に立たなかった?
そして、とうとう奥州合戦が始まりました。
奥州軍は阿津賀志山には、二重の空堀と三重の土塁からなる、長さ約3kmに及ぶ防塁(ぼうるい)を築いていました。
第五幕:阿津賀志山の戦い (国見町のホームページより)
防塁は、空堀と土塁で作られたものとのことです。延べ25万人が6カ月以上かけて作りました。
そして、ウィキペディアによると鎌倉軍の戦力は25,000人以上、奥州軍は20,000人となっています。
この状況でどちらが有利かと見ると、私は地の利を考えて奥州軍が有利と思います。
しかし実際は、3日で奥州軍は敗北してしまいました。
その理由として、鎌倉軍の80人の工兵隊が一夜にして防塁の一部を崩してしまったからだと言います。
延べ25万人の労力で6カ月以上かかった防塁が、80人の工兵隊により一夜で無力化されてしまったというのです!
下記の動画はNHKの番組の切り抜きです。参考に掲載します。
【鎌倉殿の13人】の時代 1189年 奥州合戦 阿津賀志山の戦い
この番組を見る限り、奥州軍ってアホすぎませんか。6カ月以上かかって作った防塁をたった一夜で台無しに崩されているのです。
見張りをしてなかったのでしょうか?命が懸かっている事態にも関わらず、です。
そもそも防塁で鎌倉軍を防げるという発想自体が間違いだったのでしょうか?
私は全くのど素人ですけど、もし戦うとしたらもっと頑強な防御法を考えます。
その後の奥州軍の敗走ぶり
防塁を破られた奥州軍は3日で敗北しています。
秀衡の代になってから30年以上、奥州軍はまともな戦の経験がありません。
平家との戦いで最近まで実戦を踏んできた鎌倉軍との差で奥州軍は負けたのでしょうか。
泰衡は多賀城からあっさり退却してしまい、平泉に火を放って逃げてしまいます。
こうして見ると、阿津賀志山の戦いが全てでした。
しかし、その生命線とも言える防塁をたった80人の工兵隊に壊されて、一夜で無力化されてしまいました。不思議です。
もし、防塁が機能していたら、兵力は鎌倉軍2万5千以上、奥州軍2万で、奥州軍は互角以上に戦えたはずです。
しかし、そんな危ない橋を頼朝が渡るでしょうか。私には頼朝には勝ち戦である確固たる自信があったとしか思えません。
全くの推測ですが、例えば、奥州勢は逃げ腰で実際には数千人しか兵が集まらなかったとか、奥州軍の中に頼朝と内通していた裏切り者がいたとか...
その後泰衡は、贄柵で郎従の河田次郎に殺害されてしまいます。
下記は、http://rover.seesaa.net/article/477494654.htmlより参照
この史跡を見ると、泰衡は自刃したのであり、河田次郎が殺害したわけではないですね。
にも関わらず、頼朝は逆臣の罪を冠せ断罪したとあります。主殺しを許せなかったなどと言う道義ではなく、言いがかりをつけて河田次郎を亡き者にしたということです。
河田次郎も被害者でした。
どうやって取り返したのか分かりませんが、眉間に釘を打ち付けられた泰衡の首は、中尊寺金色堂に秀衡の墓とともに葬られています。
中尊寺ではこの首を忠衡のものと伝えていましたが、のちの研究の結果、泰衡のものとされました。
頼朝と言う人物
年下の義経(9男だから九郎)が平家を倒すのに頑張ったのに、冷たくあしらうどころではなく、義経を厄介者として討てと命令する長兄、それが頼朝です。
そして義経を討てと命令しながら、泰衡が義経を討つと、勝手に家人を殺害したと言いがかりをつけて、奥州藤原氏を滅ぼしてしまう頼朝。
源平合戦の時は、自分は前線に出ることなく、鎌倉から命令していただけの頼朝。
しかし、奥州へは進軍しています。何が欲しかったのでしょうか。