雑学

源頼朝の謎について考えてみました

源頼朝について疑問に思っていること

くだもの小僧と申します。

奥州藤原氏が滅ぼされた奥州合戦がらみの記事を数件投稿したのですが、その繋がりで、源頼朝に関する記事を投稿したいと思います。

私が不思議に思っている、源頼朝に関する疑問を下記ににあげます。次に具体的に弁じてみたいと思います。

■源頼朝は、なぜ源平合戦(治承・寿永の乱)では自ら出陣しなかったのか

■そんな頼朝が、なぜ奥州合戦では先頭切って出陣して行ったのか

■奥州合戦後、奥州藤原氏から分捕った富(特に金)はどうなったのか
・なぜ頼朝は永福寺を金ぴかにしなかったのか

■頼朝は本当に落馬で亡くなったのか

■なぜ頼朝の子は将軍でありながら、非業の死を遂げたのか

源頼朝は、なぜ源平合戦(治承・寿永の乱)では自ら出陣をしなかったのか

頼朝の力は不思議!

鎌倉幕府の次に幕府を作った足利尊氏も、南朝方との戦いや足利氏の内紛などで幾度も出陣しています。
織田信長や豊臣秀吉や徳川家康などの日本を支配した戦国武将も、自ら出陣して前線で指揮をしています。

頼朝を手本にしたと言われる家康ですが、三河に留まって命令だけ出すのではなく、関ケ原でも大坂の陣でも、リスクを顧みず出陣してます。

ところが、ところが、頼朝に至っては、最初に石橋山の合戦でボロ負けした後、関東の武士たちが頼朝のもとに集まり、頼朝自らは出陣することなく、弟の範頼と義経に命令するだけで平家を滅ぼしています。

私はとても不思議に感じます。

大将自らが戦場に姿を見せないと、味方の士気に関わると思うのですが...

私は、頼朝は何か不思議な力に憑かれているような気がしてなりません。

源平合戦と言う名前は相応しくない?!

私は子供の頃から、源平合戦と呼んでいましたが、今では「治承・寿永の乱」と言うのですね。

何だかピンと来ない名前です。言いにくいです。

子供の頃から、平家の赤旗、源氏の白旗、と言って、運動会でも赤組、白組で競い合ってますね。

でも、ウィキペディアで拾ってみるだけでも、鎌倉側に桓武平氏の末裔である武将がたくさんいることに気付きました。

河越重頼、北条時政、土肥実平、大庭景義、三浦氏、上総広常、葛西清重、畠山重忠、梶原景時、北条義時など

うーん、確かに、源平の合戦とは言い難いです。

北条氏が平氏の出であることは有名ですね。

平家→平氏
源家→源氏
北条氏→平氏
足利氏→源氏
織田信長→平氏

と言う具合に、平氏と源氏が変わりばんこに武家の棟梁になったと高校の授業で聞かされました。
そして、平氏の信長に天下を取られないように、源氏の出である明智光秀(土岐氏)が織田信長を討ったのだと。

高校時代の日本史の教師がそう言ってました。
「へぇー、そうなのか」と思わず感心しました。
信長と光秀の件は、もしかしてそうかもと言う話です。

そんな頼朝が、なぜ奥州合戦では先頭切って出陣して行ったのか

奥州の人口は日本全体の10分の1でした

で、そんな頼朝ですが、奥州合戦では先頭切っていそいそと出陣しています。

ところで前提として、鎌倉28万騎、奥州17万騎などとよく言われますが、奥州にそんな兵力はいません。

図録▽地域別人口分布の超長期推移(縄文時代から1995年 …

下記のリンクから該当箇所を切り抜きしたのが下図です。

当時の人口は、東奥羽で33万人、西奥羽で28万人となっています。奥州全体で61万人。
日本全体では683万人となっています。

61万人の人口で、17万騎もの騎馬武者はあり得ません。経済が成り立ちません。

鎌倉28万騎も誇張表現ですが、単純に人口比から推測して、鎌倉の勢力は奥州の9倍はいる計算です。

ですから、かなり少なく見積もっても、奥州合戦での鎌倉軍は奥州軍の3倍以上はいたと思います。

義経頼みだった藤原秀衡、でも子の泰衡は...

藤原秀衡は、源義経と子の泰衡、国衡に義経を総大将として頼朝の攻撃に備えるよう3人に起請文を書かせたと言います。

しかし泰衡は、頼朝の圧力に屈して、藤原泰衡は衣川で源義経を討ってしまいました。

頼朝の恐れていた義経はいなくなりました。

戦上手の総大将を失い、実戦経験のほとんどない奥州軍、さらに内紛まで起こしてまとまりのない奥州藤原氏一族...

私の勝手な推測ですが、奥州軍は軍勢が集まらず、せいぜい鎌倉軍の10分の1くらいしかいなかったのではないでしょうか。

鎌倉軍は、楽勝ムードで奥州軍を撃破したと思います。

頼朝は物見遊山で、平泉の先まで行軍していったと思います。

奥州合戦後、奥州藤原氏から分捕った富はどうなったのか

大規模な遠征を行なったからには、それなりの利益が得られなければいけません。

私は、この奥州藤原氏が残した富がどうなったのか、非常に気になります。

奥州藤原氏から分捕った所領

奥州から分捕った所領は下図の通りです。なかなかの史料だと思います。


ちなみに、大塚徳郎さんと言う方は、学者さんです。既にお亡くなりになっていらっしゃいますが、宮城教育大学の名誉教授までなられています。御見それしました。

なぜ頼朝は永福寺(ようふくじ)を金ぴかにしなかったのか

奥州藤原氏の力の基となった金ですが、なぜかしら奥州藤原氏滅亡後は、目立った話が出てきません。

戦国時代になって、伊達政宗が金山開発を行なっていますが、随分ブランクがあります。

頼朝は、数多の戦を供養し源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊・英霊をしずめ、冥福を祈るために永福寺を建立した、とのことです。

頼朝は、策略をもってかなりの人を滅ぼしたのですから、相当の怨霊が我が身に降りかかっていたと自覚していたのではないでしょうか。

ですからもし、奥州藤原氏の残した金がふんだんにあったならば、永福寺に中尊寺金色堂のような金ぴかのお堂を建てたのではないかと思うのです。

永福寺は鎌倉の寺ですから、頼朝の権力の象徴にもなったと思います。

でも、奥州藤原氏が滅亡後、金をふんだんに使ったという景気の良い話は残念ながら無いですね。

北方貿易も廃れたのでしょうか?

北方貿易とは、奥州藤原氏、あるいはそれ以前に奥六郡を支配した安倍氏や清原氏がアイヌを介して北東アジア大陸を含む北方地域との間で行った交易、とのこと。

交易品は、動物(アザラシなど)の毛皮類、鷲の尾羽、水産物などだそうです。

それから奥州藤原氏は宋とも貿易してますね。金で払って、陶磁器を輸入していたそうです。

奥州藤原氏滅亡後以降は、あまり行われなかったのでしょうか。

金があまり出なくなったとすると、自然の成り行きかなとは思いますが。

金はどこに消えたのでしょうか。

秀衡の埋蔵金伝説

そこで出てくるのが、北方の王者と称された藤原秀衡が残したと言われる埋蔵金の伝説です。

金鶏山と言う、標高100メートルにも満たない山に隠されているという伝説です。

そんな小さい山なら、埋蔵金があるのなら見つかりそうな気もしますが、見つかっておりません。

しかし、奥州藤原氏滅亡後、あれだけたくさんあったと思われる金が、突然消えたようにも見えるので、どこかに隠したと思いたくもなります。

埋蔵金伝説ってロマンがありますからね。

今日はこれくらいにしておきます

頼朝の落馬の件とか、頼朝の子たちが非業の死を遂げた話とかは後ほどに回します。

あれだけ強大な権力を誇った頼朝ですが、その子供たちがあっけなく滅んでしまったのは、なんでかなといぶかしく思います。

足利将軍家も徳川将軍家も15代まで続きました。

それに比べて、源将軍家は儚過ぎです。