雑学

独裁者 源頼朝の子供たちと親戚の悲惨な末路

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

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頼朝が築いた鎌倉幕府は北条氏に乗っ取られた?

くだもの小僧と申します。

源義経および奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝ですが、彼が築いた鎌倉幕府は実質北条氏の政権になってしまいます。

頼朝の子、頼家と実朝は、ろくに将軍としての働きができていません。
父、頼朝と比べるとずいぶんの差です。

源氏の将軍は3代で終わりです。

足利氏、徳川氏の血筋は15代まで将軍の地位を保っています。

あんなに強大な権力をほしいままにした頼朝ですが、なぜこんなことになってしまったのでしょうか。

頼朝なら、自分の死後も子供たちの地位を安泰にしておく手配ができたのではないかと、不思議に思います。

源氏系譜図

下記に源氏系譜図を載せます。全員は網羅していません。
赤色は頼朝によって誅された人青色は頼朝以外の人によって誅された人緑色は平家と戦って亡くなった人ピンク色は病死した人です。


平家と戦って亡くなった人より、頼朝に誅された人の方が多いです。
頼朝の4人の子供たちは皆非業の死を遂げています。

源頼朝の子供たちと親戚たちの儚い運命

源氏系譜図で亡くなった人たちの表

上記系譜図で亡くなった人たちの表です。生誕年順に並べています。年齢は単純に没年から生誕年を引いたもので、享年とは異なる場合があります。
若くして亡くなった人が多いですね。一番長生きしたのは頼朝です。

源氏系譜図で亡くなった人たちへのコメント

以下、短く上表の人たちのコメントを記します。

源義朝
頼朝らの父である義朝です。
平治の乱で平家軍に敗れ、尾張国知多郡まで逃れますが、家人の長田父子に殺害されます。

源行家
権謀術数に長けており、尾張で平家相手に挙兵したり(墨俣川の戦い)、源義仲の下では平家と戦っていますが、その後の平家追討には参加しておりません。
源義経が頼朝追討の院宣を受けたときには、義経に与しますが頼朝方の軍勢に敗れ、和泉国日根郡に潜伏しているところを捕らえられ、斬首されています。

源義広
宇治川の戦いで頼朝が派遣した源義経軍との戦いで、源義仲軍に加わります。
義仲討ち死に後、伊勢国羽取山(三重県鈴鹿市の服部山)に拠って抵抗しますが、頼朝方の軍勢と合戦の末、斬首されます。

一条忠頼
甲斐源氏の武田信義の嫡男。
よく分かりませんが、頼朝によって謀殺されます。

源義平
悪源太と呼ばれます。ここで言う「悪」は悪いという意味ではなく強いとか勇猛であるという意味だそうです。何か格好いいですね。
父義朝とともに平治の乱で平家と戦いますが、捕えられ六条河原において処刑されます。

源朝長
義平と同様、父義朝とともに平治の乱で平家と戦います。義朝とともに落ち延びますが、合戦での怪我が悪化し付いていけなくなったため、本人同意の元、義朝の手によって殺されます。
何とも言えないです。

源範頼
頼朝の弟です。平家追討軍の総大将です。
曾我兄弟の仇討ち事件の時、頼朝が討たれたとの誤報が入り「後にはそれがしが控えておりまする」と口走ったために、謀反の疑いをかけられます。頼朝に忠誠を誓いますが、伊豆に流された後、結局殺されます。
平家滅亡の立役者の一人なのですが、悲惨ですね。

阿野全成
源実朝を擁する北条時政と手を結び、源頼家一派と対立します。常陸国に流され、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺されます。

源義仲
木曾義仲とも言われます。倶利伽羅峠の戦いなど平家との戦いに勝利し、入京します。しかし、教養や文化に触ずに育ったため、知識や教養がない粗野な人物として疎まれます。養和の飢饉が起きていたこともあり、京都の治安が悪化したため苦境に立たされ、後白河法皇とも決裂し、結局、範頼・義経が率いる鎌倉軍と宇治川の戦いで敗北します。落ち延びますが、近江国粟津で討ち死にします。

義円
墨俣川の戦いで、平家と戦闘し討ち死にします。

源義経
源範頼とともに平家追討の戦いに活躍します。しかし頼朝から疎まれます。後白河法皇に働きかけ頼朝追討の院宣を得ますが、手の平返しで逆に頼朝が義経追討の院宣を得ます。
逆賊となった義経は、奥州藤原氏を頼って平泉に逃れますが、藤原泰衡の裏切りに遭い、衣川で討たれます。

源義高
源義仲の嫡男です。頼朝の長女・大姫と婚姻を約され、人質として鎌倉にいましたが、父義仲が宇治川の戦いで敗れたため、大姫は懸命になって義高を逃がします。しかし、武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で頼朝の郎党・藤内光澄に討たれます。

大姫
源頼朝の長女です。源義高と婚姻を約されますが、頼朝と義仲の破局により義高は誅されます。義高11歳、大姫7歳の時です。切ないですね。その後、大姫は床に臥す日が続きます。
頼朝は大姫を一条高能と結婚させようとしますが、大姫は強く拒絶します。次に頼朝は大姫の入内を画策し、後鳥羽天皇と大姫を結婚させようとしますが、大姫は回復することなく病死します。

源頼家
頼朝の死後、18歳の時鎌倉幕府第二代将軍となりますが、比企氏と北条氏の権力闘争に翻弄されます。そして頼朝の後ろ盾であった比企氏は滅亡し、頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺されます。
岡本綺堂作の『修禅寺物語』という戯曲が有名です(当然ですがフィクションが多分に入っています)。

三幡
頼朝の次女です。通称は乙姫。頼朝は入内を諦めず、今度は三幡を後鳥羽天皇に結婚させようと図ります。しかし三幡は、高熱を出し病床に臥し、そして目の上が異常に腫れあがって亡くなります。三幡が亡くなったのは頼朝の死の後です。

源実朝
頼朝の嫡出の次男です。兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就きます。北条氏の傀儡です。鶴岡八幡宮拝賀の時に、頼家の子、公暁により暗殺されます。
つまり、甥に暗殺されてしまったということです。可哀そうな人です。
鴨長明は実朝の和歌の師を目指して鎌倉に下りますが、実朝が暗殺されてしまったため成し得ませんでした。

一幡
源頼家の長男です。頼家が重病中に比企氏は滅ぼされ、一幡は北条氏の手の者によって殺されてしまいました。惨いですね。

公暁
源頼家の正室の嫡男です。出家し、鶴岡八幡宮寺別当に就任します。そして鶴岡八幡宮に参詣した源実朝を暗殺します。公暁は、北条義時の命を受けた三浦義村によって討ち取られます。

頼朝の死因は?

頼朝の晩年3年間の近況→吾妻鏡に記載なし

頼朝は、相模川橋供養(北条政子の妹の供養)の帰路で落馬しました(12月暮れ)。
その翌月(1月13日)に頼朝は死去しました。※ここの日付は旧暦です。

吾妻鏡には頼朝の晩年(1196年から1198年)の3年余りの記述がなぜかしら無いのです。
吾妻鏡を書いたのは北条氏ですから、空白の3年余りは、北条氏に都合の悪いことがあったのだと捉えるのが常識です。

吾妻鏡の記述が無いこの時期は、頼朝が娘の大姫や三幡を入内させようと盛んに活動していた時期です。相手は後鳥羽天皇です。

娘を天皇の后にすることを熱望した頼朝ですが、娘二人は病死し、後鳥羽天皇はあっさり天皇の座を退いて上皇になってしまいます。

頼朝の死後ですが、後鳥羽上皇は後に承久の変を起こします。しかし敗れ、隠岐の島に流されてしまいます。
時の最高権力者に宮家が武力で挑んだ、歴史上極めて稀な事件です。

頼朝の死因としては、落馬とか、病気とか、呪いとか、暗殺とかありますが、頼朝の年齢やストレス、生活習慣病の可能性などから見て、病気が有力ではないでしょうか。

呪い説

と書きながら、私は呪い説を信じます。一番非科学的な説ですね。

呪いはストレスの強烈なものだと思います。

頼朝を呪って亡くなった人は数多くいるはずです。

奥州藤原氏の秀衡、泰衡、国衡など親子、主殺しの濡れ衣を着せられた河田次郎。

あの時助けずに、殺しておけばよかったと悔やまれる平家の人々。

そして系譜図に掲げました源氏の親類一同、特に頼朝に苛め抜かれた源義経、そして源範頼などなど。

個人的には、大姫の怨念も相当強かったと思います。鎌倉でともに過ごし、大姫7歳で、自分のお婿さんになると信じていたいた義高を、頼朝は殺してしまうのですから!
父娘ですから、強烈な念を発していたと思います。

終わりに

これで、黄金の国ジパングから奥州藤原氏滅亡まで、さらに頼朝の死までの一連の投稿を終わります。

特に奥州藤原氏と義経に関しては、平泉が焼かれてしまったため史料が乏しく、色々な説が可能になっています。

頼朝の死因に関しても、吾妻鏡が頼朝死去の時点では書かず、ずっと後、実朝の時に記述するという奇妙なことをしています。

こういう歴史の謎めいたところは、空想の余地があり、面白いですね。

ところで、
「おごれる人も久しからず」
これ、平家よりも、源頼朝に対する方が合っている気がします。