出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
目次
またぞろ奥州合戦を弁じます
くだもの小僧と申します。
本投稿もまたぞろ奥州合戦関連です。
奥州藤原氏についての過去の投稿を載せておきます。
奥州合戦では、阿津賀志山の戦いで藤原国衡率いる奥州軍が敗走すると、多賀城まで詰めていた藤原泰衡は戦うことなくあっさりと退却し、さらには平泉に火を放って、秋田県北部の贄柵まで逃げて行ってしまいます。
(「柵」は建物の回りを文字通り柵で囲んだ防御施設で、城の原型と言われます。)
そのため、平泉の史料が燃えてしまい多くのことが謎になってしまいました。
ところで、泰衡は北海道(義経がいる?)まで落ち延びるつもりだったという説もあります。
頼朝は石橋山の合戦でボロ負けした後、鎌倉からほぼ出ていないのに奥州合戦では...
在宅で平家を滅ぼした頼朝
源頼朝は源平合戦(治承・寿永の乱)においては、弟の範頼と義経に任せっきりで、自身は鎌倉からほとんど出ていません。鎌倉から命令を出すだけです。
頼朝を尊敬したと言われる徳川家康ですが、関ケ原の合戦や大坂の陣は言うに及ばす、それまでの合戦でも自らが出陣して戦いの前線で指揮を執っています。
ちなみに平家が簡単に滅んでしまったのは、西日本に大規模な飢饉(養和の飢饉)があったことも一因と言われています(参照:下記拙稿。鴨長明は目撃者だったのですね)。
養和の飢饉 (養和元年 1181年 26歳)
平家を滅ぼした時点で、頼朝は(朝廷は別として)日本の支配者と言えると思います。
実際、1185年に頼朝は守護・地頭の設置権を獲得しており、最近の歴史では、この年が鎌倉幕府成立の年とされているようです。
(いいハコ(1185)作る源頼朝...)
頼朝は奥州に攻め込む必要があったのでしょうか。藤原泰衡が義経を討って恭順の意を示したにもかかわらず、です。
ところが頼朝は奥州合戦ではほいほいと平泉の先まで出かけて行った
源平合戦では鎌倉から出なかった頼朝ですが、1189年の奥州合戦においては、頼朝自らが出陣し、御家人を総動員して、大手軍、東海道軍、北陸道軍の3手に分けて進軍し、計画的に奥州藤原氏を滅ぼし、奥州の占領を行なっています。
頼朝は平泉を通り越して、厨川まで出かけています。
何故、頼朝はこのような大遠征をやったのでしょうか。
ちなみに、豊臣秀吉の天下統一は北条氏の小田原攻めまでで完了で、東北の戦国大名たちは秀吉に抵抗することなく服属しています。
鎌倉軍は準備万端で奥州を征服した、かな?
奥州軍の主力と戦ったのは頼朝率いる大手軍のみ。楽勝?
下記に奥州合戦の地図を載せます。
奥州合戦地図(『左大臣どっとこむ』の「奥州合戦 地図」に赤字で加筆)
https://history.kaisetsuvoice.com/Kamakura01.html#google_vignette
この図の通り、奥州軍の主力と戦った鎌倉軍は頼朝率いる大手軍のみで、東海道軍は、阿津賀志山の戦いの後、大手軍と合流しています。
この作戦はどう思われますか。東海道軍は阿津賀志山の手前で大手軍と合流すれば、手堅く奥州軍を撃破できたはずです。
結果的には、大手軍だけで奥州軍を打ち負かしてます。阿津賀志山の戦いでの勝利は、頼朝にとって、まるで予定コースのようです。苦戦するリスクは考えなかったのでしょうか。
北陸道軍は、信濃から越後を迂回して、平泉は通らず、陣岡で大手軍、東海道軍と合流しています。
鎌倉の大手軍2万5千は奥州軍2万人に対して戦力配分間違ってないか?
奥州合戦の主戦場は阿津賀志山の戦いで、ここで鎌倉の大手軍2万5千人と奥州軍2万人が激突したと言われています。
吾妻鏡の記述をそのままに、鎌倉28万騎とか奥州17万騎とか言われることがありますが、そんな数の騎馬武者を動員することは不可能です。吾妻鏡における誇張表現です。(参照:下記拙稿)
「奥州合戦」での鎌倉28万騎は本当か?
鎌倉大手軍2万5千人(2万5千騎ではありません)とすると、鎌倉28万騎の残りの鎌倉軍はどこにいたのか?ということになりますね。
鎌倉の大手軍2万5千人と奥州軍2万人の兵力差は、奥州軍の地の利を考えると、互角ないし奥州軍有利に思えます。
果して、あの頼朝がこんな危ない橋を渡るでしょうか。木曾義仲との戦いでも、平家との複数の合戦でも、自分は鎌倉にいたままで命令してただけの頼朝です。
私は、阿津賀志山の戦いの時点で、鎌倉軍と奥州軍との間には既に圧倒的な戦力差があったものと推測します。
奥州軍2万人が誇張されてるのか、実際は鎌倉大手軍にはもっと増援部隊がいたのか...
現実、鎌倉軍は3日で奥州軍を負かしています。
よく、頼みの綱の防塁が一夜で壊されてしまったという解説がされてますが、6カ月以上かけて作ったと言われる防塁が、一夜でおじゃんとはお粗末すぎです。疑問を感じます。
下記の動画は防塁に関するNHKの番組の切り抜きです。
【鎌倉殿の13人】の時代 1189年 奥州合戦 阿津賀志山の戦い
義経が生きていれば、という話になるのかも知れませんが、それにしても奥州軍って防衛策が全くダメダメにしか思えません。
でも義経も生きていた時にこの防塁を見聞きしていたはずです。何も意見しなかったのでしょうか。『そんなのじゃすぐ破られますよ』と。
頼朝はまるで奥州旅行を楽しむように厨川まで到達している
前九年の役と後三年の役
厨川柵は前九年の役で源頼義によって討たれた、安倍貞任が居館としていました。
安倍軍は強く、源氏軍は苦戦しましたが、清原氏の加勢によって、源頼義は安倍氏を討つことができました。
この時、源頼義の嫡男である源義家も参戦して活躍しています。
安倍貞任の首は、丸太に打ち付けられ晒されたと言います。
安倍氏に与した藤原経清は、鋸状の刃物で首を切られています。
1062年のことです。
殺しても殺したりない奴っていう感じですね。えげつないです。
ところが後三年の役では、源義家が藤原清衡と組んで、清原家衡を滅ぼしています。
藤原清衡は奥州藤原氏の初代当主となります。つまり、源義家は奥州藤原氏を起こすことに一役買っていたことになります。
「いわての文化情報大事典:奥六郡の盟主・安倍氏と前九年の役」より(赤線は加筆)
さてさて、なぜ頼朝はわざわざ安倍貞任の居館のある厨川まで行ったのでしょうか。しかも北陸道軍と合流してます。
故事に倣って泰衡の眉間に釘を...
頼朝は故事に倣って、藤原泰衡の首の眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けたと言われています。死者に対してそこまでやるか...と思います。
(藤原泰衡って、頼朝に従って源義経を討った忠義ものですよ。でもその後、頼朝に攻められて奥州藤原氏を滅ぼされてしまったのです。とほほ...です。)
でも、前九年の役で首を丸太に打ち付けられ晒されたのは、安倍貞任であって、藤原氏ではありません。(親戚ではありますが)
前述したとおり、藤原経清は鋸引きにされたのです。
後三年の役では、藤原清衡は源義家に与して、清原氏を滅ぼしています。源義家は「八幡太郎は恐ろしや」と謳われたほどの源氏の強者です。源氏のヒーローの一人です。
何か、頼朝のやってることって、ちょっとずれてませんか。
鋸引きだとさまにならないから、泰衡の首に八寸釘を打ち付けたのでしょうか。泰衡の斬首された首を鋸引きだと滑稽ですものね。
八寸釘は頼朝のパフォーマンスにしか思えません。
藤原泰衡が斬首され釘を打ち付けられたのは、1189年のことです。
安倍貞任が丸太に打ち付けられたのは1062年、127年後のことですね。
間が長すぎませんか...
NHKの大河ドラマのシーンが不自然に見えて仕方ありません
NHKの大河ドラマ「草燃える」では、衣川で頼朝が義経の死を哀しむ場面がありますが、それまでの頼朝の行動を見るに、義経に対してそんな思いがあったとは到底思えません。
自分で弟を死に追いやっておいて、その命に従って藤原泰衡を討つと、逆に家人を勝手に滅ぼしたと言って奥州藤原氏を滅亡させる頼朝。
頼朝に対して「役者やのー」って言いたくなりますが、このシーンはドラマであって全く史実ではないと思います。
頼朝の進軍ルートに金山はないですね
頼朝が、平泉から衣川まで行ったのは分かるのですが、厨川まで行く必要があったのでしょうか。
それよりも私は、頼朝が金山の視察に行ったのではないかと思い、奥州藤原氏の金山の場所を上述地図に書き込んでみたのですが、頼朝の進軍ルートに金山はないですね。かなり外れています。
奥州藤原氏の平泉を繁栄させた主な要因の一つは金だと思いますが、ちょっと当てがはずれました。
だいぶ掘りつくしてしまったのでしょうか。
最後に
長くなりすぎたのでここで一旦筆を置きます。
泰衡が平泉を焼いてしまったので、史料が残っておらず疑問の多い奥州藤原氏ですが、それだけに謎めいていて、色々空想できてしまいます。
史料がわずかしか残っていないと、逆に面白いですね。邪馬台国論争のように。