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奥州合戦とは何ぞや
私、子供の頃から歴史の授業は真面目に勉強していたつもりなのですが、数年前まで
「奥州合戦」なるものを知りませんでした(トホホ...)。
奥州合戦とは、源平の戦いで源氏が平氏を滅ぼした後、鎌倉政権が奥州藤原氏に戦を仕掛け、これを滅ぼした戦いです。
文治5年(1189年)7月から9月にかけて行われました。
奥州藤原氏4代目泰衡の時に起こった戦です。
NHKの大河ドラマでも、『炎立つ』というタイトルで、奥州藤原氏を描いた作品として、1993年7月から1994年3月まで放送されました。
と、聞いたような口を利いてますが、知ったのはつい最近です。
上表は奥州藤原氏の状況をひどく簡単にまとめたものです。
秀衡は義経を匿ったのですが、秀衡が病死すると、頼朝の圧力に屈して泰衡は義経を衣川で討ってしまいます。義経は自害します。
泰衡はこれで奥州は安泰と画策したのでしょうが、なんと頼朝は泰衡との約束を違えて奥州に攻め込んで、奥州藤原氏を滅ぼしてしまいます。
何とも言えませんね...
吾妻鏡に書かれています
奥州合戦に関する記述を見て、最初に感じたのは「鎌倉28万騎って本当か?」でした。
「騎」って単なる人じゃないですよね。ググると「馬にのった兵士」と出ます。
28万騎とすると、徒の兵隊も入れると、鎌倉全軍では何万人くらいになるのでしょうか。
奥州合戦での鎌倉方の戦力を、28万騎って書いたのは「吾妻鏡」という歴史書です。
『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。
---中略---
編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。日本における武家政権の最初の記録と評される。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より
『吾妻鏡』って、鎌倉幕府が作った歴史書なんですね。つまり公の歴史書ですね。
ところで、『吾妻鏡』とは粋な名前のように感じます。
吾妻鏡は、鎌倉時代研究の基本史料ですが「注意は必要」とのこと。”28万騎”は注意に該当する部分でしょうか。
鎌倉28万騎の真実味の計算
データに基づいて考えてみます
「注意は必要」な吾妻鏡ということなので、疑ってかかって、総務省が掲載している日本の人口データに基づいて、28万騎の真実味を概算で計算してみます。
ちょっと古い資料ですが、日本の人口グラフを下記に載せます。(総務省のサイトより)
(鎌倉幕府成立は今は1185年が主流のようです。)
西暦800年以降、徐々に人口は増加してきましたが、江戸幕府成立から享保の改革までで
グイっと増え、明治維新以降、爆発的に増加します。
閑話
ピーク以降、急激に減少しますね。この予想はちょっと急過ぎの気がします。これだと政府が無策ということです。
これは、移民を受け入れなければ日本はやっていけないよ、と言うための資料でしょうか!?政府は大和民族を増やすという政策を行う気はないのでしょうか?
上記のグラフを基にして、表にしたものを載せます。
「経過年数」は鎌倉幕府成立からの年数、「間の年数」は各「出来事」間の年数
「人口増加数」は各「出来事」間での増加数、「倍率」は鎌倉幕府成立と比べての倍数
江戸幕府成立時の数値をこの後で使います。
江戸幕府成立時の人口数は鎌倉幕府成立時の1.62倍です。265年経ってますが、漸次的にしか人口は増えていませんね。
鎌倉時代初期の武士って何人いたか
鎌倉時代のものは分かりませんが、江戸時代の人口構成なら歴史の教科書に載っています。
百姓が85%、武士が7%、町人が5%、その他(公家,僧侶など)が3%とのことです。
ここで言う武士は、兵農分離が進んで、武士の身分が確立した武士と思われます。
武家の奉公人(若党や下人)は、百姓でも町人でもないので、武士に入れときます。
武家奉公人について、下記の記述がウィキペディアにあります。
「彼らは軍の構成の58%を占めていた。大坂冬の陣、加賀藩400石取りの武士を例にとると侍衆の若党1 – 2人、馬引きや槍持ちの下人3 – 6人、他に労役農民の人夫1 – 2人を連れるよう規定されていた。」
騎馬武者一人に対して、若党、下人、人夫が少なくても5人はいたことになります。
※但し、鎌倉時代初期にはまだ槍は戦用の武器として使われていなかったそうです。ですから槍持ちはいないですね。
鎌倉幕府成立時の人口構成比は分からないので、えいや!で、江戸時代の人口構成比をそのままあてはめてしまいます。すなわち武士は7%として鎌倉幕府成立時の武士の人口を計算してしまいます。
757万人×0.07=53万人
奥州合戦は鎌倉軍にとっては遠征ですから、兵糧や鎧を担ぐ下人はいたでしょうし、徒のお供の兵士もいたはずです。
鎌倉28万騎(28万人じゃない)はかなり無理な数字に思えます。
鎌倉方全軍の人数
そして、鎌倉方全軍は騎馬武者一人に徒の兵士や下人が四人はいたとすると、鎌倉方全軍は
28万騎×5人=140万人
となります。⇒⇒⇒140万人の大軍が奥州に押し寄せた!!!
無理ですね、28万騎はありえないという計算になりました。
また、豊臣と徳川が戦った、大坂冬の陣では合計で29万人とされています(ウィキペディア)。
大坂冬の陣でさえも、両軍合計で29万騎ではなくて、29万人です。
前述したウィキペディアの「大坂冬の陣、加賀藩400石取りの武士を例にとると侍衆の若党1 – 2人、馬引きや槍持ちの下人3 – 6人、他に労役農民の人夫1 – 2人を連れるよう規定されていた。」と照らし合わせると、大坂冬の陣の騎馬武者数はせいぜい6万騎くらいではないでしょうか。
それでも物凄い騎馬武者数だと思います。
以上の概算で、「吾妻鏡の鎌倉28万騎はかなりの誇張である」と言えます。
とても長くなりましたが、結論として吾妻鏡は誇張されているということをデータから確認しました。
歴史書なのに盛りすぎですね。
誇張なんて当たり前だろ、って言われそうですが、NHKの大河ドラマなどでも、この数をそのまま使っているのです。
ドラマ側からすると、歴史書にそう書かれているのだから、そうするしかないだろ!っていうことでしょうか。
ついでに奥州17万騎も見てみます
平安末期の東奥羽、西奥羽の人口を見てみます
鎌倉28万騎に対して、奥州17万騎と言われます。
日本の人口推移を地域別にまで記した資料を見つけましたので、下記に掲載します。
図録▽地域別人口分布の超長期推移(縄文時代から1995年 …
上掲の資料の平安末期の部分を抜粋しました(関ケ原合戦は無視してください)。
平安末期1150年のグラフを見ると、当時の人口は、東奥羽で33万人、西奥羽で28万人となっています。つまり奥州全体で61万人。
合計すると、日本全体では683万人となっています。
これは総務省の、1192年には757万人という人口データと比べると、近からずも遠からずというところでしょうか。相違は大勢には影響ないと思います。
奥州17万騎の真実味の計算
真に言いたいことは、奥州17万騎というのは、奥州全体の人口と比べて多すぎるということです。
つまり、騎馬武者1人に対して仮に3人のお供が要ったとしても
17万騎×4人=68万人
で、1150年の奥州全体の人口を超えてしまっています。...
これも盛に盛っています。
歴史書ではあるが、北条氏の立場で書かれた吾妻鏡
吾妻鏡は日本の歴史書ですが、前述のウィキペディアにもあるように、
「編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂である」
と、北条家に都合の良いように書かれたもので、伝承も入っているとのことです。
軍勢の実数を示すことよりも、鎌倉幕府の力が如何に強大かを示すことに主眼が置かれているのではないかと思います。
だから騎馬武者の数を盛って盛って書いたのだと思います。
騎馬武者数以外にも、北条家の都合の良いように書かれた記述があります。
終わりに
今回は、ほとんど奥州合戦の騎馬武者数の記述で終わってしまいました。
この件が昔から気になって仕方がなかったので、ちょっと時間をかけて考えてみました。
鎌倉28万騎なんてありえないと思うけど、ドラマや書物などでは、なんで訂正した数値を使わないのかなと。
存在する歴史書では、28万騎としか書いてないので、それと違う数値を使う根拠がないということでしょうね。
歴史は、読んでて面白ければいいのです。
次回は、奥州合戦に関して、これは謎ではないかなと思うことについて記述したいと思います。