目次
はじめに
皆さんは鴨長明の方丈記を読んだことがありますでしょうか。
私も、高校の授業で読んだ経験があります。
徒然草に比べて方丈記は真向ストレートで、迫力があると思います。
正直言って、今の私には方丈記の方が感銘を受けます。
私は、文学的な観点よりも、歴史的事実の点に重きをおいて、方丈記について記事を書いてみたいと思います。
鴨長明が経験した、天災、人災に関する内容があまりにも凄まじいので、そのことについてブログに残しておきたいと思った次第です。
鴨長明が生きた時代
鴨長明は、1155年生まれで、1216年に没しています。
61歳ということになりますでしょうか。
つまり鴨長明は、平安時代から鎌倉時代にかけて生きた人です。
ですから、鴨長明が生きた時代は、平清盛により平氏が権勢をふるって武士の時代となり、その後平氏が滅び、源頼朝により鎌倉幕府ができた時代です。
けっこう、激動の時代ではないでしょうか。
参考のために、長明の出来事の年表を作りました。
方丈記での年齢は数えだと思うので、そこは満年齢に直しています(間違いありましたらご免なさい)。
後述の、天災・人災の年表も満年齢で書いてます。
方丈記のタイトルとなる、方丈の住まいは最晩年の数年間住んでたのですね。
もともと鴨長明は、禰宜の家系で、そこそこ良い家柄だと思うのですが、長男に出世を阻まれて不遇の境涯を過ごします。
49歳の時に、完全に遁世生活に入ります。
それでも56歳の時に、将軍である源実朝の和歌の師を目指して鎌倉に下ったのですが、その夢もかなわなかったのです。
(実朝もその後、暗殺されてしまったのはご存じの事かと思います。)
鴨長明の方丈記は、日本の随筆に名を残す名作となったのですが、和歌の才能もそうとうなものだったのです。
長明は、不遇の人生を過ごしました。でもそれは、私のような凡人にはそのように見えるだけで、長明は本当の幸せとは何かを追求し続け、その境地に至ったのではないかと思います。
それではこの記事では、鴨長明が実際に見聞きした、天災・人災について、考察していきたいと思います。
鴨長明が被災した天災・人災の歴史的事実について
方丈記について、青空文庫から抜粋させていただきました。
また、現代語訳は佐藤春夫氏の訳を参考にさせていただきました。
方丈記を読んでて驚くべきことは、わずか9年の間に京都で4つもの天災が起こっているということです。
学生時代は、すっかり読み飛ばしていました。
方丈記の天災・人災の記述は、鴨長明が若い時、22歳から30歳の間のことです。
方丈記の記述を読むと、そのいずれもが悲惨な状況で、読んでると気持ちが滅入ってしまいます。
22歳から30歳の間にこんなに大きい災難に見舞われてしまっては、世の中を儚む気持ちが生じても分かる気がする、なんて思ったりします。
それでは、4つの天災と1つの人災について、気になる部分を方丈記から抜粋して、なんとなくわかった気になってみたいと思います。
【】抜粋した原文を囲っています。
→佐藤春夫氏の訳を参考にした、くだもの小僧の勝手なコメントです。
きちんと読みたい方は、青空文庫の全文をお読みください。
安元の大火 (安元3年4月28日 1177年 22歳)
ググったら色々出てきました。これは日本史上の災害としても、大きな出来事だと思います。
【いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。】
→「朱雀門や大極殿、大学寮、民部省等を一夜の中に尽ことごとく灰塵かいじんとしてしまった。」とあります。
京都の有名な建物が一夜にして灰になったのです。長明は当然目撃したはずですから、ショッキングな事件だったと思います。
2019年に沖縄県の首里城の正殿が火災で焼失し大事件となりましたが、はるか昔、京の都であったのですね。
下図は現在のGoogle Mapを加工して、方丈記に出てくる安元の大火の場所を記載したものです。だいたいイメージしていただければと思います。
【あるひは煙にむせびてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。】
→悲惨な状況を記載してます。まるでその場で見てきたようです。
人々が煙でバタバタ倒れる様子や、炎に焼かれて死んでいく様子を、実際に見たのかも知れません。トラウマになりそうですね。
【七珍萬寳、さながら灰燼となりにき。そのつひえいくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。】
→京の街の3分の1を一夜にして灰にしてしまったというのですから、被害の大きさが甚大であることが分かります。もし、今の日本で、大きな都市の3分の1が火事で焼失したとしたらどうでしょう。
今の時代では消防署の人たちが、そのような火事を防ぐために働いてくれているわけです。
ところで、馬牛は逃げられなかったのでしょうか。人が優先だったからでしょうか。
死者数が数千人と、はっきりした数値が分かりませんが、鴨長明の記述通り死者数数千人だとすると、日本史上かなりの大火災ではないでしょうか。
治承の辻風 (治承4年4月 1180年 25歳)
治承の辻風について、ググった限りでは、方丈記に関する記述しか見つけられませんでした。確かに他の天災と違って、犠牲者の記載がないので、その点では、日本史上の災害としては小さいほうかもしれません。
【中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。】
→三四町にわたって家が壊れたというのですから、相当な辻風です。ちなみに辻風は竜巻とは違うものだそうです。
【垣を吹き拂ひて、隣と一つになせり。いはむや家の内のたから、數をつくして空にあがり、ひはだぶき板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。】
→家の中のものが空に舞い上がったり、板屋根が木の葉が風に舞い上る様に乱れて空に吹き上げられたというのですから、かなりのものです。
【かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづけるもの數を知らず。】
→壊れた家を修繕しようとしたら、また突風が吹いてきて怪我をして、体が不具合になったものが多数いたというのです。鴨長明は、実際にそういう人達を見聞きしたのでしょう。
【つじかぜはつねに吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず。さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。】
→今回の辻風は不思議と思うほどひどかったと長明は感想を述べています。
私は大きな辻風というものに出会ったことがありません。昔はそんなに辻風が吹いたのでしょうか。
福原遷都 (治承4年6月 1180年 25歳)
福原遷都は、1180年6月から始まり、同じ年の11月には、再び京都に都を戻したというのですから、平清盛の失政だと言えます。
【この京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。】
→「京都は嵯峨天皇の時から都と定められ、数百年の年月が経っている。そう易々と都を変えたりするものではない。」
長明は福原遷都に対してかなり批判しているようです。
【所のありさまを見るに、その地ほどせまくて、條里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。なみの音つねにかまびすしくて、潮風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、いうなるかたも侍りき。】
→「福原の場所は狭くて波の音が騒々しいし潮風が強いところで、恵まれた場所とは言えない。」
長明は色々福原の悪口を書いてますね。実際に福原に行ったのでしょうか。噂でそういうことは知っていたのでしょうね。
【軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。】
→「多くの住居は解体されて淀川に浮かべられ、京との地は畠になってしまった。」
家を解体して、淀川に浮かべて運んだとは、大変な作業ですね。
残された地は、荒れた地になってしまったのですね。
下図は現在のGoogle Mapで福原京の観光地をマークしたものです。
こうやって見ると、淀川から福原京までだいぶ距離がありますね。
ご覧の通り神戸と言う場所は、北はすぐに六甲の山があり、南は海です。平野部は細長いです。埋立地の無い当時は、一層波の音が良く聞こえ、潮風に悩まされたでしょうね。
【いにしへのかしこき御代には、あはれみをもて國ををさめ給ふ。則ち御殿に茅をふきて軒をだにとゝのへず。煙のともしきを見給ふ時は、かぎりあるみつぎものをさへゆるされき。これ民をめぐみ、世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。】
→「昔の天皇の世は民を憐れみて国を治めた。皇居が荒れてしまっても、民が苦しんでいるときは、税金を免除して民を恵みて世を助けた。今の世の中は嘆かわしいことである。」
これは現在の政治にも言えることですね。
昔の天皇の方がよっぽど経済を理解しています。
養和の飢饉 (養和元年 1181年 26歳)
干ばつなどの被害により、西日本一帯が飢饉に陥った大災害です。
平家が木曽義仲に敗れたのも、飢饉が一因だったと言われています。
【二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつゞきて、五穀ことごとくみのらず。】
→2年間も飢饉が続いたとのことです。これは悲惨な状況ですね。
【路頭に飢ゑ死ぬるたぐひは數もしらず。取り捨つるわざもなければ、くさき香世界にみちみちて、かはり行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。】
→飢饉は、一時の災難ではなく、長い間続きますので、悲惨な状況に陥りますね。
「路頭に遺骸がたくさん捨てられて腐り、においがひどく、目も当てられないほど姿かたちが変わってしまっている。河原は言うまでもなく、馬車が通る道もないほどだ」とは地獄絵です。
【心ざし深きはかならずさきだちて死しぬ。そのゆゑは、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を、まづゆづるによりてなり。されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。又(父イ)母が命つきて臥せるをもしらずして、いとけなき子のその乳房に吸ひつきつゝ、ふせるなどもありけり。】
→自分が飢え死にしかけていても、愛おしいものに食べ物を与えてしまう。だから殊に親が先に死んでしまう。
こんな究極な状況でも親と言う者は自己犠牲を貫けるものでしょうか。
食料がなくなることが、いかに恐ろしいことか。教訓です。本当に、食べ物があるということは、ありがたいことです。
【仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百あまりなむありける。いはむやその前後に死ぬるもの多く、河原、白河、にしの京、もろもろの邊地などをくはへていはゞ際限もあるべからず。】
→飢饉の犠牲者の数について、方丈記の記述です。
「慈尊院の大藏卿隆曉法印と言う人が、屍の額に阿の字を書いて極楽往生を念じたが、その数が4万2千3百あまりになった。大藏卿隆曉法印が数えきれていない前後や、河原や白河、西の京、それ以外の地を加えると際限のない人数がいるだろう」と。
額に阿の字を書いた遺骸だけで4万2千3百あまりになったと長明は記しています。
「白河」は京都の洛外の地名ですね。「西の京」は奈良県の方のことです。長明が把握できた地域がそれ位ということでしょうか。ですから、西日本一帯となると、犠牲者の数は計り知れないです。
元暦の大地震 (元暦2年7月9日 1185年 30歳)
平安時代に京都で大地震があった。私は今回方丈記を読むまで、この事実を知りませんでした。
むむっ、勉強になりました。
【そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。】
→ご存じのように日本は地震の多い国です。近年でも、いくつも大きな被害をもたらした地震が発生しています。被害者数の多さで言うと、東北大震災、阪神淡路大震災があげられます。
方丈記の記述でも、地震の恐ろしさが色々描かれています。
山が崩れて川を埋めた。
海が押し寄せたと記述されてます。津波が発生したのでしょうか。京都まで来たのでしょうか。海岸線も今とだいぶ違うから何とも分かりませんが。
【地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。はしり出づればまた地われさく。】
→「家が揺れ、壊れる音が雷のようだった。家の中に居れば家が押しつぶされそうだし、外に出れば地面が割れる。」
この後、「あるものゝふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、・・・」と、長明はある出来事を詳しく書いているのですが、佐藤春夫氏もこの部分は訳されておりません。あまりにも残酷な場面だからだと思います。
長明は本当に見たのだろうか?と疑いたくなるほどです。
【よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。】
→長明は余震の記述をしています。
「日に二三十度、十日、二十日過ぎて、やっと日に数回になった。三カ月は余震が続いた」とあります。3カ月は長いですね。
現在でも、東京ではしょっちゅうと言っていいほど地震が起きます。建物が揺れて「ひょっとしたら・・・」と、恐怖を感じますね。
長い間都だっということは、地震はさほど起きない土地であると何かで聞いたことがあるのですが、長明の時代にはまさかのことが起きたのですね。
日本は火山列島で、首都直下型地震や南海トラフ地震など、かなりの確率で起きると言われています。
そのための備えをしておく必要があると思いますが、できれば起きてほしくないと願います。
終わりに
以上、災害という観点で方丈記を考察してみました。
方丈記の本当の価値はそこではないと思いますが、ちょっと視点を変えた見方で方丈記を読んでみました。
学生時代に読んだときは、方丈記における天災・人災をすっかり分からないままで読んでしまったようです。
今おっさんになって読み返してみると、こんなすごいことが書かれていたのだなと驚いています。
こうしてみると、方丈記は歴史書としての史料価値もあるのではないかと思います。
そして鴨長明は、20代から30歳という若きときに、これらの災難に遭いました。
私の記事だと、災難の話ばかりなので、方丈記の素晴らしさを感じたい方は、どうぞ方丈記の全編をお読みください。青空文庫ならネットで、原文も佐藤春夫氏の現代語訳も読めます。
もちろん書籍でもどうぞ。